ロードス島攻防記

海の都の物語によく出てきていた「ロードス騎士団」。
不思議な存在と思っていたのだけど、その成り立ちから物語を通してとても面白く理解できた。
以下本文より要約、抜粋。
イェルサレムイスラム教徒の支配下にあった九世紀の中頃にアマルフィの富裕な商人により建てられた西欧からの聖地巡礼者のための病院も兼ねた宿泊所が紀元。そのためアマルフィの紋章が聖ヨハネ騎士団の紋章となった。
一〇九九年の第一次十字軍によるイェルサレム征服から四年後に法王が公式に宗教と病人治療に奉仕する宗教団体として認可。これにより「聖ヨハネ病院騎士団」と称される。一身を犠牲にして遠いパレスティーナの地でキリストの敵と闘っているということで寄付が集まり裕福に。
一一三〇年、法王が聖ヨハネ騎士団に軍旗を与える。力で奪った聖地は力で守る必要に迫られての方向転換を示している。
騎士団は、騎士道精神と修道院精神の融合をめざして創設されただけに、修道僧と同じ規則(清貧、服従貞潔)を守る義務を課される。彼らは、いわば僧兵だった。
第二次第三次十字軍遠征の時代、軍事を司る階級と、医療を司る人の区別を明確にした。医療に従う人々には騎士の身分は与えられなくなった。
一一八七年、イェルサレムが再びイスラム教徒の手に帰す。
一二九一年アッコン陥落。聖ヨハネ、テンプル、チュートンなどの騎士団、難民に。
聖ヨハネ騎士団イスラム教徒相手の海賊を始める。
一三〇八年、ビザンチン帝国が領有していたロードス島を征服。以後「ロードス騎士団」と呼ばれるようになる。
一四五三年、ビザンチン帝国滅亡。
一四八〇年、トルコのマホメッド二世、十万の兵をロードス征服に送るが失敗。
一五二二年、スレイマン一世、十万の兵でロードス島を攻撃(本書の本編部分)。長い激闘の末に騎士団降伏。ロードス島を去り再び難民に。
一五三〇年、神聖ローマ帝国皇帝でスペイン王も兼ねるカルロスがマルタ島を性ヨハネ騎士団に与える。
一五六五年、トルコ軍五万の兵でマルタ島を攻めるが騎士団に撃退される。
一七九八年、マルタ島聖ヨハネ騎士団は、エジプト遠征途中のナポレオンに闘いも交えずに降伏。マルタ島を追放され、三度目の難民に。その後マルタ島は一八一四年ナポレオンの失脚によってイギリスの領土に。第二次大戦を機に独立。独立国マルタの紋章は、聖ヨハネ騎士団八角の変型十字である。
今でもローマのコンドッティ通りに聖ヨハネ騎士団の本部があり、ヴァティカンと同じようにイタリアの中の独立国となっている。イスラム教徒相手の戦士たちは消えたが、医療活動は現在でも残り、活動を続けている。注意して見れば、世界中に、赤字に変型十字のしるしをつけた病院や研究所や救急車があることに、気づくようになるであろう。いまだに各言語別の隊を組んで活躍している、騎士たちである。