ローマ人の物語25 賢帝の世紀(中)

君主ないしリーダーのモラルと、個人のモラルはちがうのである。一私人ならば、誠実、正直、実直、清廉は、立派に徳でありえる。だが、公人となると、しかも公人のうちでも最高責任者となると、これらの徳を守りきれるとはかぎらない。ラテン語では同じく「ヴィルトゥス」だが、私人ならば「徳」と訳せても、公人となると「器量」と訳したのでは充分でない場合が少なくなく、しばしば「力量」と訳さざるをえなくなるのである。
(65ページ)

政治は非常なものなのだ。そのことを直視しないかぎり、万人の幸せを目標にすえた政治はできない。そして、政治を行うには必要不可欠である権力も、それを行使するには権力基盤が堅固であることが先決する。権力の基盤が確立していないと、権力の行使も一貫して行えないからである。
(68〜69ページ)

献身とは辞書によれば、自分の身命を差し出すこと、自分を犠牲に供すること、となるが、死んで生きること、でもあると私は思っている。そして、そのようなことまでしてくれる人をもったということ自体が、指導者の「徳」であると思うのだ。
(69ページ)

平時にはやはり、秩序を守るほうが組織は機能するからであった。
(99ページ)

ローマ帝国滅亡後の北アフリカの住民は、かつての流浪の民が定着民化したケースが多く、緑があってこそ雨も降るという道理が理解できないのではないかと思ってしまう。そして、緑を確保するための唯一の方策は、「平和」でしかないという道理も。
(158ページ)

法令の集大成も、ただ単に集めれば成るわけではない。悪法とされたり時代に合わないという理由で事実上司法化したものは廃棄し、必要な法は新たに制定することによって膨大な量になっていた法令を整理し、ローマ社会のルールであるローマ法を再構築する作業なのである。整理し再構築するということならば、軍備でも法律でも同じことなのだ。ハドリアヌスは、真の意味のローマ帝国の”リストラ”をした人であると思っている。
(165ページ)