ローマ人の物語41 ローマ世界の終焉(上)

人間ならば誕生から死までという、一民族の興亡を書き終えて痛感したのは、亡国の悲劇とは、人材の欠乏から来るのではなく、人材を活用するメカニズムが機能しなくなるがゆえに起る悲劇、ということである。
(カバーの金貨について)

人間の運、不運は、その人自身の才能よりも、その人がどのような時代に生きたか、のほうに関係してくるのではないか
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人間社会とは、活力が低下するにつれて閉鎖的になっていく
(98ページ)

「共同体」(res pubilca)と「個人」(privatus)の利害が合致しなくなることも、末期症状の一つであろうかと思ったりしている。そして、公共心も、個人が、自分の利害と自分が属す共同体の利害は連動する、と思えた場合に発揮されるものではないか
(114ページ)

公共心とは、いったん失われてしまった後では、取りもどさせるのは実に難事なのである。
(139ページ)

公共心とか戦闘意欲とかは、個人個人の差を考慮に入れる必要があるという点において不確定要素である。だが、この不確定要素さえも充分に活用したいと考えるならば、給料や退職金の保証や市民社会への復帰に際してのメリットとかの、確定要素への配慮は欠かせなかった。人間の多くは、安心できてこそやる気を起こすものなのだ。こうなって初めて、「国家)(res publica)と「個人」(privatus)の利害の一致も期待できるのである。
(154ページ)

ローマでは長く、シビリアンとミリタリーは分離していず、ゆえにシビリアンによるミリタリーのコントロールという概念も生れようがなかったのである。だがこの二者が非分離であったことによって、シビリアン・ミリタリーの両分野にわたって人材の活用が進み、結果としては、ローマ全体の国益に利することになったのだった。
(156ページ)

人間とはしばしば、見たくないと思っている現実を付きつけてくる人を、突きつけたというだけで憎むようになる。
(201ページ)

もしかしたら人間のちがいは、資質よりもスタイル、つまり「生きていくうえでの姿勢」にあるのではないかとさえ思う。そして、そうであるがゆえに、「姿勢」こそがその人の魅力になるのか、と。アレクサンダー大王の魅力が、短くても充実していた彼の行き方にあったように。
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