赤めだか


赤めだか

今年最初の情熱大陸は落語家の立川談春だった。
これまで落語といえばせいぜい日曜夕方の笑点くらい。
迫力に驚き、番組でも取り上げられてた本を読んでみたくなった。


中学生だった談春少年、上野鈴本へ落語を聞きに行き、師匠となる立川談志に出会う。
「人間は寝ちゃいけない状況でも、眠きゃ寝る。酒を飲んじゃいけないと、わかっていてもつい飲んじゃう。・・・それを認めてやるのが落語だ。客席にいる周りの大人をよく見てみろ。昼間からこんなところで油を売ってるなんてロクなもんじゃねェヨ。でもな努力してみな偉くなるんなら誰も苦労はしない。努力したけど偉くならないから寄席に来てるんだ。『落語とは人間の業の肯定である』」
独特の毒舌の面白さに驚き、談志の追っかけをはじめる。


こういったエピソードも実に活き活きと書かれている。
神は細部に宿るというけれど、腕の良い落語家も細部の描写が実に細やかなのだろう。
この本は談春の落語を語りではなく紙に落としたものなのだ。


立川流の落語界における位置づけも全く知らなかったのだが実に興味深い。
落語協会は寄席という場を持ち一年三百六十五日興行をしている芸術協会という一家であり、運命共同体である。
大所帯であるから序列を重んじ、和を乱す存在を嫌う。
この落語協会から立川談志は飛び出した。立川流は一家ではなく研究所である。研究所であるから飛びきり強い生命体も生まれるが、その陰で驚くほどの犠牲も出る。実力、能力を優先した本当の意味での平等と自由はあるが、残酷なまでの結果も必ず出る。それが談志(イエモト)の選んだ教育方法である。


そう、残酷なまでの結果もこれでもかというくらい書かれている。
談春少年も何度となく残酷なまでの結果の方に落ちかける。
下宿で独り辞めることを考えて、まんじりともできない夜が更けて、夜明け前にふと思い出したのは、辞めていった兄弟弟子の言葉。
何の確約もない言葉でも、人間はすがりつく時がある。すがりつかないと前に進めないことがある。それを、自分は決断したなどと美化した上で、現実をみつめることもなく、逃げ道まできちんと用意してしまう弱さがある。


何度ももう駄目かと思いながらも、テキトーに新聞配達をして部数を激減させながらも、落としたシューマイをそのまま配達して激怒されながらも、グレて博打にはまりながらも、談春少年は最後の最後で逃げなかった。おかげで僕らは彼の芸を観ることが、聴くことができる。
人間の業の肯定、万歳。


それから最後にもう一つ。
キッザニアからの帰り道。娘と豊洲有楽町線に乗り日比谷で降りる。はずだったのだがこの本を読み始めた父ちゃん、あっ!と気づいたら市ヶ谷で扉がしまったところだった。
電車で読むときはご注意を。