ローマ人の物語10 ユリウス・カエサル ルビコン以前(下)

カエサル個人の辞書には、復讐という言葉はない。復讐とは、彼にすれば、復讐に燃える側もその対象にされる側も、同じ水準にいなければ成立不可能な感情なのである。しかし、兵士たちならば、同輩九千の死に復讐心を燃やすのこそ当然なのだ。ただし、それを活用する者は、燃えるよりも醒めていなければならなかった。なぜなら、感情とはしばしば、理性で必要とされる限界を超えてまで、暴走する性質をもっているからである。
(22ページ)

翌日、カエサルは全軍を集め、兵士たちを叱った。ただし、叱ったのであって怒ったのではない。カエサルは、怒るということを極度にしない男だった。
(106ページ)

・・・とはいえ、叱るばかりでは、兵士たちの士気をそぐ結果に終わりやすい。それでカエサルは、たとえ無謀に終わったとしても彼らの勇敢さは誉めたのである。ただし、と彼はつづけた。兵士たちが、戦況の進展や戦闘の結果を最高司令官よりも正しく見透せると思いこんだ傲慢さは許すわけにはいかないと言った。そして、叱責を、次の言葉で終えたのである。「わたしはお前たちに、勇気と誇り高い精神を望むと同じくらいに、謙虚さと規律正しい振舞いを望む」
(107ページ)

人間誰でも金で買えるとは、自分自身も金で買われる可能性を内包する人のみが考えることである。非難とは、非難される側より非難する側を映し出すことが多い。
(196ページ)

(スッラとカエサルは、)二人とも目的をはっきりとさせる性質で、それゆえに部下の兵士たちからは、したわれると同時に敬意をはらわれていた
(219ページ)

内戦の真の悲惨とは、その犠牲になって死んだ人の数ではない。犠牲にされたことで生まれる、恨み、怨念、憎悪が、後々まで尾を引いて容易には消え失せないことにある。
(221ページ)

カエサルは生涯、自分の考えに忠実に生きることを自らに課した男でもある。それは、ローマの国体の改造であり、ローマ世界の新秩序の樹立であった。
(222ページ)

憎悪も怨念も復讐心も、自分は相手よりは優れていると思えば超越できる。憎悪や怨念や復讐欲は、軽蔑に席をゆずる。
(224ページ)