ローマ人の物語12 ユリウス・カエサル ルビコン以後(中)

支持者のほうが、主唱者より過激化するものである。
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(第十軍団のストライキを「退役を許す」という一言で意気消沈させたカエサルのエピソードを古代の史家たちが)「カエサルは、ただの一語で兵士たちの気分を逆転させた」
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キケロによる小カトー論は、おそらく、小カトーの清廉潔白な生き方を賛美し、自らの考えを貫き通した死に方を賞讃したものであったろう。一方、カエサルの小カトー論は、小カトーの狭い視野を非難し、小カトーが誇りとした清廉潔白よりも論理のあくなき追求よりも、人間世界には優先さるべき大問題があることを、説き明かしたものではなかったか。このエピソードを見ても、政治にかぎらずすべての思想は、所詮はその人のライフスタイルの反映にすぎないのかと思ったりする。
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ムッソリーニは、ローマの警士の捧げもつ権標から彼主唱の主義をファシズムと名づけ、師団と言わずに軍団と呼び、ローマ式敬礼を導入し、最精鋭軍団を第十軍団と名づけたりしてイタリア軍の強化に努めたが、結果は第二次世界大戦に見るとおりで終わった。形式も大切だが、中身がともなわなくてはどうにもならないという一例でもある。
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ローマ人は、民主政体そのものには、一度として魅かれたことはなかった。ペリクレス時代のアテネの民主政体も、ペリクレスという抜群の政治能力をもつ人物がリードしたからこそ、機能できたのだと見抜いていた。そして、ペリクレス亡き後のアテネを衰退に追いやった衆愚制は、当時はいまだ新興国であったローマにとっては、格好の反面教師でもあったのである。
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人間にとっては、ゼロから起ちあがる場合よりも、それまでは見事に機能していたシステムを変える必要に迫られた場合のほうが、よほどの難事業になる。後者の場合は、何よりもまず自己改革を迫られるからである。自己改革ほど、とくに自らの能力に自信をもつのに慣れてきた人々の自己改革ほど、むずかしいことはない。だが、それを怠ると、新時代に適応した新しいシステムの樹立は不可能になる。グラッスス兄弟以降のローマのエリートたちの苦悩は、まさにこの点より発していた。
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孤独は、創造を業とする者には、神が創造の才能を与えた代償とでも考えたのかと思うほどに、一生ついてまわる宿命である。
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治安と清掃は、そこに住む人々の民度を計る最も簡単な計器である。
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カエサルは、ソフトな面での改造も考えていた・・・教育水準の向上と、医療水準の向上がそれだった。・・・教養科目を教える教師と、医療に従事する医師の全員に、ローマ市民権を与えると決めたのである。
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