ローマ人の物語20 悪名高き皇帝たち(四)

敗者復活を容認する国家は、健全に機能する国家でもある。ローマには、それがあった。
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権力をもてば、それがどのようなたぐいの権力であろうと、権力をもたない側からの非難を浴びずにはすまない。しかも権力者への非難とは、なぜかその権力者に弱みが見えたとたんに、集中攻撃してくるものでもある。
(109ページ)

不祥事は、すべてが順調に進んでいるうちは出てこない。が、不都合が起こるやいなや火を噴く性質をもつ。
(112ページ)

新しい運動は、それが何であれ、最も身近な人々からの反撥をまず浴びるものである。
(166ページ)

成功に大満足だったネロだが、二十八歳になろうとしているのに、あることに無知だった。人間というものはなかなかにやっかいな存在で、親近感と敬意は、彼らの心中では両立しがたい存在であることを知らなかったのだ。そして、皇帝の仕事は、敬意を払われないと進めて行けないということも知らなかったのである。
(178ページ)

歴史に親しむ日々を送っていて痛感するのは、勝者と敗者を決めるのはその人自体の資質の優劣ではなく、もっている資質をその人がいかに活用したかにかかっているという一事である。
(189〜190ページ)

旅とは、情報を得るよりも、現地を自分の眼で見、空気を吸い、それによって土地鑑を養うのに役立つ。
(193ページ)

(ネロは)善政はしたのだが、それがじぞくしなかっただけである。とはいっても、持続する意志とは、リーダーには不可欠の要素ではあるのだが。
(216ページ)

反体制は、ただ単に反対するだけでは自己消耗してしまう。自ら消耗しないで反体制でありつづけるには、現体制にとって代わりうる新体制を提案しなければならない。これをやってこそ、反体制として積極的な意味をもつことができるからである。
・・・では、現体制にとって代わりうる新体制を提示できない場合、知的な反体制人はどこに、自らの道を求めるのか。
 批判、である。それも、安易な。批判のための批判やスキャンダル志向に堕してしまうのは、それをしている人自身が、自分の言葉の効果を信ずることができないからである。
(227〜228ページ)