海の都の物語(2)

指揮決定は、一人の独断を許さないようにしながらその道のプロたちにまかせ、他の人々もそれぞれの立場を守って全力をつくす。このやり方が共同体の利益を引き上げるのに役立つばかりでなく、結局は各個人の利益として返ってくる。ヴェネツィア共和国の政治、経済、外交を通じて展開されるこのヴェネツィア精神は、もしかしたら、商船の航海の行程でつちかわれたものかもしれない。
(30ページ)

1300年前後を境として、まず、航海技術の革命が起る。次いで、船の構造が変化してくる。商業のほうでも、商業技術の画期的な改良が行われるのはこの時期だ。そして、これらを基盤として、商人のタイプも変わってくるのである。
(70ページ)

航海技術の変化だが、それは、羅針盤と航海図と、それから「ターボラ・ディ・マルテロージオ」と呼ばれる、言うなれば航路の早見表だが、この三つが航海に必要な三器として活躍しはじめることによって起ったのであった。
羅針盤は、九世紀以前にすでに、支那で考えだされたものであるらしい。それが、アラビア人によって地中海にもたらされ、一三〇二年にイタリアの海洋国家の一つ、アマルフィの商人によって改良され、その有効性から、地中海地方の船乗りの間に急速に普及したと言われている。
(70ページ)

航海図だが、後世のわれわれが見ることのできる一番古いものは、一二七〇年に作られた、通称「カルタ・ピサーナ」と呼ばれる、これもイタリアの海洋国家の一つであったピサの商人によって作られたものである。
・・・現代のわれわれから見ても、実に正確にできている。とくに、彼らの活躍の主たる舞台であった地中海域の正確さは、今日でもそれを使って航海できそうなくらいだ。北ヨーロッパは、それほどには正確ではない。
(71ページ)

「ターボラ・ディ・マルテロージオ」とは、東西南北を、全体で三十二に区分した図表である。
ただしこれは、羅針盤や航海図とちがって、使い始めたらもうそれなしでは航海できない、というたぐいのものではない。吹いてくる風の方向によって、船を目的地へ向わせるには、羅針盤と航海図を参照し、三角法を使って計算すれば、航路とそこまでの距離はでてくるのである。しかしこれは、航海術に長けた人にしてはじめて早く答えをだすことができる方法である。
・・・これらの技術革新は、航海可能な時期を、大幅に拡大することになる。雨が降ろうと霧が立ちこめようと、また曇天であろうと、航行できるようになったのである。それまでの肉眼で確かめての航海では不可能であった冬期の航海も、この技術革新で可能になった。
(71〜72ページ)

一三〇〇年前後に、北欧の丸型の船が、地中海にも知られるようになった。吃水線の高い、四角帆の帆船である。この「コッカ」は、人件費の節約イコール輸送コストの軽減という点で、イタリアの海洋国家の注目を呼ぶことになった。
(74ページ)

十四世紀の特色である改革の第三は、商業技術の進歩であった。それはまず、簿記の普及によって始まる。
・・・それを複式に改良したのは、ヴェネツィア人であった。一見しただけで商いの全容がわかる複式簿記は、たちまち、ジェノヴァフィレンツェをはじめとする西欧の商人の間に広まる。彼らの間では、複式簿記は、「ヴェネツィアーナ」(ヴェネツィア式)という通称で呼ばれた。
簿記の記入に不可欠なアラビア数字がヨーロッパにもたらされたのは、一二〇〇年代はじめのピサ人の功績による。はじめのうちは、憎っくき異教徒の産物ということで、教会関係者をはじめとする人々から、少なからぬ抵抗を受けたらしい。しかし、ローマ数字と比べれば、便利なことでは比較にならない。書きちがい読みちがいも少なくなるうえに、0という観念もある。それで、現実的な商人の間では、教会の妨害にもかかわらず拡まっていった。
・・・アラビア数字で記された複式簿記によって、商人は、自分が直接に関与した商取引の全容を知ることができるだけでなく、海外の代理人を通じて行う間接の取引もふくめた、商い全般の進み具合を知ることも可能になった。
(80〜81ページ)

簿記の発明やアラビア数字の紹介と違って、完全にヴェネツィア人の功績に帰してよいのは、近代的な意味での銀行を創ったことである。
(81ページ)

銀行家は、帳簿にそれを記入する。これでカネは動いたわけだ。以前のように、金貨や銀貨の袋を持ち歩かなくても、商売ができるようになったのである。
(82〜83ページ)

そのうえ、ヴェネツィアの銀行に口座を持たない者と商取引が成立しても、ヴェネツィアの銀行と相手の銀行間の捜査で、つまり為替手形によって、遠方の地での支払いもまったく問題がないようになっていた。これは、金貨の袋をしこたま運んで行かねばならないことから起るリスクを避けられる利点に加えて、収益で別の商品を強いて買い求める必要もなくなったということでもある。
(83ページ)

中世の西欧キリスト教世界には、権力構造の定義として、上からと下からとの、二つの定義があった。
上からとは、神、法王、皇帝、君主と、権力構造が上から下へとさがってくる型である。これが、法王と皇帝の地位がどちらが上かという問題で、法王派と皇帝派の争いの源になったものである。もちろん、地位は任命によるのだから、君主制だ。
一方、下から、とは、住民共同体が法によって代表を選ぶ型で、権力構造は、当然下から上へ向う。民主主義政体というものであろう。両者とも、独自のイデオロギーの上に立っていることでは変りはない。
しかし、二つの型とも、中世キリスト教世界では、無視できない欠陥を持っていた。まず、上からの場合は、宗教の介入を許すことになる。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」であるはずなのに、キリストの後継者たちはそれを完全に忘れ、皇帝のものまで神のものであるとしたから、問題はやっかいになってしまった。
かといって、下からの場合も、欠陥がないわけではない。こちらは、人間の欲望の介入をコントロールするのが非常にむずかしくなるという欠陥を持っている。前に述べたように、市民集会を牛耳るのはごく簡単にできることなのだ。
(122ページ)

法王グレゴリオ十三世が、
「自分は、どこの国でも方法だが、ヴェネツィアではちがう」
と嘆いたが、ヴェネツィア人は、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に、というイエス・キリストの言葉を、それを守るほうが、神にとっても人間にとっても利が多いと考えて、守ったにすぎない。
(123ページ)

同時代のフィレンツェ人が、あの骨の髄から商人のヴェネツィア人が、誰のものとも知れぬ骨を信仰するのは理解に苦しむ、と言って嘲笑したヴェネツィア人の聖遺物信仰だが、・・・宗教の介入を防ぐ対策としては、なかなかに巧妙なやり方であったと思うしかない。
なぜなら、信者には信仰の対象が必要だ。それを信仰することによって、彼らは、心の平安を得るだけでなく、天国の席の予約もしたつもりになれるのである。この場合の信仰の対象が、聖者の骨ということになっている骨の一片や、キリストが架けられたという十字架の切れはしであったりすれば、これらはいかに信仰を捧げられても、その人々を扇動しようとはしないから実害はない。聖遺物購入に費用がかかっても、これならば安い対価である。
一方、合理的と自認していたフィレンツェ人には、聖遺物信仰はなかったが、それだけに生きた聖者に信仰を捧げ、彼らによって牛耳られることがたびたび起った。・・・どちらのやり方が、信仰の安らぎを与えつつ、それによる実害を少なくするのに役立ったかといえば、ヴェネツィア式に軍配をあげるしかない。
(123〜124ページ)

任期が短いというのにも問題があった。人気がかぎられている場合、人間はおうおうにして、思うことをその任期中にやりとげようと急ぎ、無理をするものである。無理は、あらゆる面で弊害をひき起す。また、かぎられた人気の場合、経験が豊かで適任と考えられる人々が選ばれるよりも、しばしば身内の者であるというだけで優先されることが多い。
(126〜127ページ)

世襲制というと、今日の人なら誰でも反撥するにちがいない。しかし、十四世紀に政治をまかせるに適した人材を養成する、どのような機関があったというのであろう。また、その人材を登用するのに、どれほど公正なフィルターが存在したというのであろう。あの時代では、その意味の教育は、父から子に受け継がれるものに頼るしかなかったのである。
共和国国会のメンバーを世襲制にすることは、政治のプロの階級をつくることであった。それによって、ヴェネツィアは、個人の野心と、それと結びつきやすい大衆の専横の二つともを、押えこむのに成功したのである。これが、上からの権力構造に組みこまれ、それがために法王や皇帝の介入を防ぎきれないという欠陥を持つ君主制に移行する危険から、ヴェネツィアを救ったのであった。ヴェネツィアは、この時期から、共和国にして貴族政を持つ国家になる。
(133ページ)

内政の混乱は、しばしば外政の失敗によって引き起されるものである。
(137ページ)

マキアヴェッリは、次のように言っている。
・・・共和国で行われている政治上の手続きは、実にゆっくりとしたものであるのが普通である。立法にしても行政にしても、どんなことでも一人で決めることはできず、たいていのことは、他の何人かと共同で決める仕組みになっている。それで、これらの人々の意思の統一をはかるのに、かなりの時間が必要になってくる。このようにゆっくりした方法は、一国の猶予も許されないという場合、非常に危険なものになる。だから、共和国は、このような場合のために、(古代ローマのような)臨時の独裁執政官のような制度を、必ずつくっておかねばならない。
(149ページ)

ヴェネツィア人は、政治のプロは、専門別化してはならないとかんがえていたのである。しかし、行政のプロは、その道の専門家でなくてはならないとも考えていた。
(162ページ)